泥沼の中で輝くもの


作風が定着する、というのは見る前からある程度のクオリティを保証してくれますが、
同時についつい、おそらくこんな感じになってるだろうなと中身の予想を立ててしまいがちで。
シーバスPの春誕動画というと、何となく「お馴染みのいろんな時空のアイドルを集めて繋げる手法で、綺麗にメモリアルな感じに仕立て上げてくるだろう」なんて先入観を持って見てしまいます。
もちろん毎回ただ同じことやってるってわけじゃなく、その都度その都度個別に表現したいことがあるのはわかっていますが。

しかし、今回の動画は見ているうちにその定番・お馴染みとはちょっと違うような気がするぞと、どこか違和感を覚えていって。
それが明確化されたのがサビのパートでした。


「きみだけがきみだけが そばにいないよ
 昨日まですぐそばで僕をみてたよ」

どちらかというと常にポジティブなメッセージを込めているイメージなシーバスPがこういうフレーズを用いたこともそうですが、
何よりあれだけ無印も2もアニマスもその他諸々も全部天海春香として一緒くたにしたうえで、ずっと一緒にいるよってなスタンスを漂わせている氏が、無印春香を「そばにいない」と表現したことがすごく不思議でした。

そして、ラストのサビパートに入ってその答えを少し掴めたような気がしました。
「きみだけを」「きみだけと」という歌詞に合わせて、いつものように自然と無印→2→アニマスの春香が切り替わっていって。
ああやっぱり、16歳とか17歳とか無印とか2とか関係なく、全ての媒体の天海春香が氏にとって愛して止まない・一緒に歩んでいきたい同一の存在なんだと。



冒頭で3つの世界の思い出の数を共有してるのも、無印の52週とかアニメの26話とかでそれぞれ別個に完結することなく、天海春香という一人のキャラクターと紡いできた思い出として繋がっているからなんだよねと。

……それを改めて確認した後で、

「僕たちの僕たちの 刻んだ時だよ
 片方だけ続くなんて 僕はいやだよ

突きつけられるこのフレーズの重みのなんと恐ろしいことか。僕は思わず圧倒されてしまいました。

氏にとって、これまで刻んできた時の全ては春香一人との思い出。
でも、春香にとってそれはどうなのか。
パラレルワールドとして分断され、各世界ごとに真っ新な存在として生まれ変わる天海春香
プレイヤーの側はずっと同じキャラクターに接しているつもりでも、天海春香はその都度リセットされている。
そんな一方通行にも感じる思い出の蓄積への困惑もしくは哀情もしくは悲鳴もしくは……。
加えて、原点たる無印春香への特別感とか、
性格やら背景やらの違いで、どうしても時折無印春香と目の前の春香とがブレてしまう戸惑い、なんて思いももしかしたらあるのかもしれない。
とにかく、物凄くいろんな思いに溢れた、情念深いフレーズだと思うのですよ。
それを表現したかったから、最初のサビの部分で1番の「きみだけを好きでいたよ」じゃなくて2番の「きみだけがそばにいないよ」の方を採用したんじゃないかなと。


そして、このフレーズがそれだけの重みを持つからこそ、
清濁織り交ぜた、決して完全に決着がつくことなどない自分の感情と向き合って、
それら全部を抱えたままで「これからも春香を好きでいるよ」と、「また一緒に歩いていくよ」と表明することが、ひたすらに力強く映る。その強靭な思いに敬意と感動を覚えずにはいられないのです。

めんどくさい人が多い〜なんてよく言いますけど、
実際ある程度長くここにいて、これまでの今のアイマスに対して何の不満も疑問も無く、ただただ純粋無垢に楽しんでいられる人なんてそういないと思うんですよ。
少なくとも僕自身は「めんどくさい」側にいるからこそ、ただの純粋で真っ新な綺麗事じゃなく、ネガティブな感情もあれこれ混ぜ込んだ泥沼でもがいている中で見えてくる、恐ろしく強くて業の深いものを愛おしく思わずにはいられなくて。
この動画の中に込められている思いと、僕の立場や考え方とは決して同じではないんだけど、
とても素敵な、勇気を貰えるようなものを見せてもらった気がしたのでした。


もっともここに書いたような解釈が間違っていることも十分あるとは思いますが、まあ僕自身は勝手にそう捉えて感極まってましたと言うことで。
あと、そういう動画ばっかりじゃ疲れちゃうと思うので、めんどくさいアレコレを排除してエンターテイメントに徹してくれているものもそれはそれで好きです。